Once Upon A Time
〜昔、バブルが破裂した。〜


  初老の男は古い新聞・雑誌を庭に積んで、焚き火の最中であった。
  山間の村にある祖父の家には広い庭があり、夏でも夕方になると涼しい風が吹く。「おじいさん、また昔話を聞かせてよ。」少年が初老の男の傍にやってきた。彼は祖父が大好きであった。若き日に世界を駆け巡った祖父は、いつも色々な時代と国の話を坊やに聞かせていた。紙の山の中には、昭和を思い出させる平凡パンチや少年ジャンプもあれば、フォーブスやフィナンシャル・タイムスもある。「では、ノアの箱舟の話をしようか。」祖父は木箱の上に腰掛けた。「それは聞いたばかりだよ。バブルの時代の話をしてよ。」
この子は何故か数10年も昔の皆が狂乱した時代の話が好きであった。祖父が語り始める。


  事の始まりは空前の好景気であった。その前の時代の世界的な不況からの脱却は、ハイテク業界が先導した。技術革新は世界標準を生み出し、成長企業が続出した。世界市場で存在感を高めた優良企業は、銀行借り入れには頼らず、株式を発行して資本市場で資金調達を行った。かくして株投資ブームがやってきた。株価は次々と大台を更新した。これに追い討ちをかけたのが、低金利政策による金余りの到来であった。これにより、株どころかあらゆる資産、取り分け不動産価格が際限なく上昇した。不動産を持つ者は次々と借金を借り替えるだけで裕福になった。キャッシュ・フローなど関係なかった。担保価値の増加が総てを解決していたのだ。バブルの絶頂期には、金融機関に勤める者は肩で風を切って町を闊歩した。ある者は腹が減ったと言えば高級寿司屋に出かけ、喉が渇いたと言えばシャンパンの栓を抜いた。街中の高級ホテルでは大騒ぎが繰り広げられ、僅か数百mの移動にもタクシーを呼びつけた者も数多くいたという。


  「でも、そんな楽しい時代がどうして急に終わったの?誰も、このまま何時までも続かないと気付かなかったの?」少年が尋ねた。「物事が起きてからその原因を解説する人間はたくさんいるさ。あの時も学者、官僚、財界人、色々な人達が各々の立場から原因究明を試みたのだよ。でも、唯一つ言えることは、景気の伸びがその頂点を越えたということだけだったね。」成長が鈍化すると、停滞が始まる前に、繁栄を最も享受していた部分の脆弱さが明らかになる。資産を他人に売りつけられない、とわかった瞬間に融資は固定化、塩漬けとなり、不良債権と化していった。「でも、皆がそれほど欲張りにならないで、借金を返せる値段でさっさと不動産を売れば良かったんじゃないの?」
  少年が素朴な疑問を口にした。老人は溜息をついて答えた。「皆すぐ値段が戻ると思ったんだよ。100円の物が120円で売れると思って、借金して買うだろ。金利やら費用を考えると110円かかるとしよう。こういう時、前の値段を知っている人は様子を見てしまうんだ。今は110円以上で売れないけれど、きっとすぐに120円、130円に価格は戻るだろうと思うんだよ。」


  かくして土地は売るに売れない状況となり、不動産価格で潤っていた人々は、たちまち元金返済どころか金利の支払いすら滞る事態となった。こうなると打撃を受けるは不動産融資を専門とするノンバンクであった。彼らはたちまち経営に行き詰まり、苦しいものから破綻していった。不動産価格の下落により住宅専門金融機関が深刻な財務危機に陥ると、金融システムの破綻が懸念された。乱脈融資を行った金融機関こそが責任を負うべきとの批判は激しかったが、各社の不良債権額は自己資本を遥かに超えており、数兆円に達する潜在損失を、誰がどれだけ負担するかが、大きな問題になったのだ。結局、解決のために公的資金が用意された。


  その後も危機は収束に向かうことはなかった。ノンバンクから火がついた金融危機は、間もなく有力金融機関の自己資本が不足しているのではないか、という疑問を提起した。標的にされた金融機関の空売りが始まり、遂に業界大手の証券会社の1社が破綻した。その跡はドミノ倒しのようであった。世界を代表する巨大銀行が次々と巨額損失を計上し、あるものは退場し、あるものは強者に合併された。大量の首切りによって金融街には失業者が溢れるようになる。やがて金融危機は本格的な景気後退を招いた。労働分配率は低下し、可処分所得は減少の一途を辿った。その結果、家計に直結する小売業が不況の波をかぶった。
大手企業の破綻が続出する。次は家庭と密接な関係にある製造業、例えば自動車産業が経営危機に陥った。国家を代表する巨大メーカーが巨額の赤字を計上し、何万人もの労働者がレイオフされた。この騒乱は、結局政府が金融業界に公的資本を注入する、という救済策を打ち出すまで続いたのであった。


  「ありがとう、おじいさん。でも日本のバブル崩壊の話はもうたくさん聞いたよね。」祖父が少し驚いた顔をして振り返ると子供は早くも眠りこんでいた。「おやおや、外で寝ると風邪を引くよ。」初老の男は焚き火の後始末をすると、子供を抱きかかえながら呟いた。「今日はアメリカの話だっんだよ。」焚き火の跡では、「ブッシュ大統領、住宅関連法案に署名」という見出しの2008年のウォールストリート・ジャーナルの燃えさしが風に揺られていた。
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