NEVER_MAKE_A_SAINT_OF_ME
〜 証券化を始めた男ルイス・ラニエリとモーゲージ債 〜


ルーウィーの夢はイタリア料理のシェフになることだった…

  鉢植えの植物だけを相手に孤独に暮らす殺し屋と、家族を皆殺しにされた少女の物語、映画「レオン」の舞台となったリトル・イタリーはダウンタウンのキャナル・ストリートの北側に位置する。初めにこの地区にやってきたのは、アイルランド人であった。彼らがアメリカ社会に同化した後に中国人とイタリア人が居を構える。1870年以降、当時貧困にあえいでいたイタリア南部から食い詰めた移民達が続々とやってきた。彼らは持ち前の忍耐強さを発揮して地域に根付いていく。最盛時には15万人もの住民が住んでいたという。
現在のリトル・イタリーは拡大を続ける南側のチャイナタウンに圧迫され、マルベリー・ストリートに沿った3ブロックだけが、かろうじて往年の面影を残している。イタリア人達もまたアメリカ社会に溶け込んでいく過程にあるのだ。アイルランド人達の多くは警察官や消防夫になった。リトル・イタリーを旅立った若者達はどこへ行ったのだろうか?


  ソロモン・ブラザースはかつて、最も投機的で挑戦的な証券会社であった。
ソロモンの歴史は1910年に始まる。国債トレーダー、フレッド・ソロモンの3人の息子、ハーバート、アーサー、パーシーは500$で自分達の会社を設立する。
パーシーの息子ウィリアムが1963年に経営の実権を握ってからは国債の取引だけでなく、優雅で排他的な投資銀行業務の倶楽部に強引に割り込み始める。
ソロモンのトレーディング志向は創業以来である。そんな証券会社のトレーディング・フロアにはアングロサクソンの上流階級からスポイルされたならず者達が集まっていた。ユダヤ人、イタリア人、低学歴者。ソロモンの社風はウィリアムの次の言葉で表現出来る。
「何にだって値段をつけてやる。何度でも文無しになってやる。」


  1977年、ソロモンのパートナー、ロバート・ドールは住宅所有者を発見した。
大企業や連邦政府、州政府に借金を返済する能力があるならば、急速に成長しつつある住宅所有者に借金が返せない理由があるだろうか。
ソロモン風の考え方をすれば、大企業や政府の借金が売物になるのなら住宅ローンだって売物になる筈である。
  ウォール街の人間達を振り向かせるために、抵当証書が山のように集められた。
  これを小口化して証券を発行すると、モーゲージ債(MBS)という商品になる。
尤もこのアイデアは彼のオリジナルという訳ではない。既にGNMA、FNMAといった政府系機関によって、モーゲージ関連証券は商品化されていた。しかし彼は政府機関の保証付の住宅ローンの集合体をグランダー・トラストという信託受益権を利用した導管体に移し、そこから生み出されるキャッシュ・フローを投資家に配分する、という工夫をして初の民間版モーゲージ債を私募債の形で発行、この商品をUSスティールの年金基金に販売した。アイデアとしては上出来だった。
こうして売り物は出来た。問題はこれを商うトレーダーだった。


  イタリアンネームを持つアメリカ人ルイス・ラニエリ(Lewis S. Ranieri)は、モーゲージ債の市場を創り上げた男である。ウォール・ストリートでの彼のキャリアは1968年セントジョン大学の2年生の時のソロモンの郵便室の夜勤のアルバイトから始まる。働き始めて間もなく彼の妻が病に倒れ、貧しいルーウィーは悩み抜いた末にとうとう名も知れぬ重役の1人に借金を申し込む。その重役は言った。「病院の費用は会社が面倒を見る。」ソロモンは約束を果たした。
アルバイトの妻の治療費のために1万$を支払ったのだ。ルーウィーは、ソロモンへの永遠の忠誠を誓った。彼は、壁のアメリカ全土の地図を郵便料金区域ごとに色分けすることで経費削減に貢献した。彼は郵便室の主任になり次いで事務要員に取り立てられた。そして1974年にはついに公共事業債のトレーダーになる。


  1978年ソロモンはウォール街初のモーゲージ専門チームを発足させた。選ばれたトレーダーは当時30才のルーウィーだった。ルーウィーはちまちまと生きていくつもりはなかった。彼は弱肉強食の世界がお似合いの野獣のような男だった。
リーダーは1人いれば充分である。ドールは数ヶ月で部署から叩き出される。
今度はルーウィーがチームの編成を始めた。モーゲージ債を作るためには、住宅ローンの山の中から似たような満期と金利と信用とリスクを持ったものを集めて、通常の債券と同じようにするための加工を行う。しかし他の債券と異なるモーゲージ債特有のリスクの一つに、何時元本が償還されるかわからない、という期限前償還リスクがある。例えば、ローンの金利が低下すると住宅の所有者達は借り換えをして以前の高利のローンを返済しようとする。金利動向の予測と期限前償還の可能性の把握、それに伴う債券価格変動のシミュレーション、ここは数理統計の専門家の出番である。「モーゲージは数学みたいなものだ。」
彼は優秀な数学者達を集めて調査部門を立ち上げる。
次に必要なのはセールスマン達だった。彼は自分と同じ匂いのする男達を探した。
つまり、ハングリーで抜け目無く、凶暴で、大声、大食らいの野蛮人達である。
モーゲージ・セクションは肥満したイタリア人のたまり場になった。
全員合わせても学位は文学士が一つだけだったが、甘ったれた奴は1人もいなかった。しかしいざ商売を始めてみると、新製品MBSの人気はぱっとせず開店休業状態が続いた。ルーウィーは諦めたりはしなかった。彼は投資家達を相手に高格付・高利回りというMBSの長所を訴え、こつこつと伝道に努めた。
彼等に暁光が指してくるのは81年になってからである。強力なロビー活動の成果もあって租税特別措置法案が可決され、当時金利の上昇により調達金利と受取金利の逆鞘に悩むS&Lは、手持ちのローンを売って手に入れた現金をより高利回りの投資にまわすことができるようになったのだ。セールスマン達は全米を飛び回り、S&Lの田舎紳士達にMBSを売りまくる。
ルーウィーのチームは83年には135人に膨れ上がり、花形部署になった。


  彼等はモーゲージプールの中から、変動利付モーゲージ債(ARM)だとかモーゲージ担保債務証書(CMO)などという新しい証券を取り出していく。
既存の商品は薄利多売になる、しかし新商品はそのライフサイクルの初期に莫大な利益をもたらす。ソロモンの税引き前利益の大半はトレーディング・ルームが稼ぎ出す。ルーウィーのチームは1985年にMBSを170億ドル発行し、3000億ドル以上を売りさばき、税引き前利益の3分の1を稼ぎ出した。投資銀行部の人間は肩身が狭く、トレーダーの中でも株式担当者は馬鹿にされた。この全盛期のルーウィーは実に印象的な言葉を残している。「神を信じている。でも俺が聖人に列せられることはないだろうな。」


  その頃になって、代々ユダヤ人が経営してきたソロモンもWASP達に支配権を渡しつつあった。トレーダー達はビジネス・スクールからやってくるようになった。
チャンスに敏感な彼等には、会社へのルーウィー並の忠誠心は期待出来なかった。


  続々と人材が流出していく。彼等はライバル会社でモーゲージ担当になってソロモンに挑戦してきた。ウォール・ストリートの金融機関はそれまで、バランスシートの右側を扱ってきた。モーゲージ債は、バランスシートの左側すなわち資産の部を扱う初めての商品だった。住宅ローンをパッケージにして売ることが出来るのなら、どんな債権だって売り物にならない理由はないだろう。
こうして1985年ファースト・ボストンがコンピューター・リース債権、自動車ローンを裏付けとした資産担保証券(ABS)を開発し、「証券化」の時代がやってきた。
87年、競争は激しかったが、ソロモンはモーゲージ債の21%のシェアを握り引受実績の1位。モルガンもメリルもライバルではなかった。唯一のライバルはファースト・ボストンだけだった。トレーディング部門はさらに大きく稼ぎ、会社の業績に貢献していた。最早誰もルーウィーを無視することは出来なかった。
ソロモンは「最強の投資銀行」とまで呼ばれる。しかし成功の陰でソロモン内部の最大最強の派閥、国債部門、社債部門との勢力争いが始まる。7月16日ソロモンお家芸のクーデターは起きた。CEOのジョン・グッドフレンドに呼び出されたルーウィーは突如解雇され、彼に忠誠を誓うイタリア系トレーダー達は片っ端から粛正された。


  ルーウィーが去ってしばらくして、ソロモンのお祭り騒ぎは突如終わりを告げた。
ブラックマンデー、S&L危機。多くのトレーダーが解雇された。同じ頃アメリカ中を席巻した企業買収の嵐は、主役の1人投資銀行までも襲った。ソロモンは乗取屋ペレルマンの標的となったのだ。この危機はかろうじて回避されたが、その後の国債の不正入札事件でさらなる打撃を受け、ルーウィーを追放したジョン・グッドフレンド以下の経営陣はこの時辞任する。ソロモンは現在スミス・バーニーと合併しシティ・トラベラーズグループの傘下にあり、日本では日興証券と業務提携している。
モーゲージ債はルーウィーの発明した商品ではない。 しかし彼が市場性を与えた。
そのモーゲージ債と資産担保証券の発行額は、94年と95年に落ち込んだが、97年には合計4500億$にも達している。
ソロモンは現在でも13%のシェアを維持し、この分野のトップである。

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