〜洗濯屋ボニー〜


  赤坂の一ツ木通りから裏手に入って寺の脇にある和風の一軒屋のバーで酒を飲む。
  カウンターに座ってグラスを傾けながらプロのマジシャンの芸を楽しむのが、この店の遊び方である。今宵秋の夜長に付き合うのは、かつて数々の損失先送り商品を語ってくれた元投資銀行員である。「アンティグアに行ってみろ、驚くぞ。高級ホテルの客はロシア語を話す奴ばかりだよ。」この男の話は何時でも興味をそそるものがある。以下は彼が語る北の大地ロシアとカリブの熱帯の楽園を繋ぐ大掛かりな金のリンクの話である。


  物語はモスクワでも椰子の木陰でもなく、1999年の夏のニューヨークから始まる。
  ロウアーマンハッタンのワン・ウォールストリートにあるバンク・オブ・ニューヨーク(BONY)は、アメリカ独立戦争終結直後の1784年6月、政治家アレクサンダー・ハミルトンによって設立された米国最古の商業銀行である。8月19日ニューヨーク・タイムズはこの老舗銀行を舞台にした大掛かりな資金洗浄疑惑を報道した。その内容は、同行の東欧ビジネス担当の女性バンカー、ルーシー・エドワーズとナターシャ・カガノフスキーがロシアの犯罪組織の不正資金移動に協力し、当局に捜査されているというものであった。
その金額は70億$にも及び、史上最大のマネーロンダリング事件となった。


  英国司法当局が、エセックス郊外にあるベネックス・インターナショナル社による頻繁な海外送金に目を止めたのは1998年9月のことであった。資金の多くは米国フィラデルフィアのYBMマグネティックス社から振り込まれていた。協力要請を受けたFBIが内偵を進めるとYBMは、ジャージー島に設立されたペーパー・カンパニーに買収されていることがわかった。ベネックスの取締役は皆、ロシア人のコンサルタントや銀行家であり、社長は米国籍ロシア人ピーター・バーリンであった。このバーリンの妻が、BONYのロンドン支店東欧担当副支店長ルーシー・エドワーズである。ベネックスは1996年以来、BONYに6の口座を開設していた。ロシア生まれのルーシーはアメリカ人と結婚して米国籍を取得していたが、その後離婚してバーリンと再婚した。しかし奇妙なことに2人の結婚は会社には秘密であった。BONYに入金された金は、スイスの銀行家ブルース・ラパポートの経営するインターマリタイム銀行を経てカリブ海のタックス・ヘイブン、アンティグアへ送金されていた。このラパポートは、80年代にBONYの筆頭個人株主となり、ロシアのアンティグア大使にも任命されている人物である。
捜査が進むにつれ奇妙な人物達が登場し、当局は色めき立った。金額も半端ではない。
ピーターは電子決済システムを利用して96年から99年にかけて1万回もの取引を繰り返していた。オンライン・バンキングや、電子マネーは、ロンダリングには便利なテクノロジーである。例えばスイスのような高度の秘密主義で知られる地域のオンライン金融機関で口座を開設すれば、誰にも名を知られることなくコンピュータ端末を使って自由に資金を移動することができるのだ。しかし、一体誰のために?


  YBMはある旧ソ連諸国向けにハイテク製品を輸出するハンガリー籍の企業と、数多くの取引をしていた。やがて捜査線上に一人の人物が浮かび上がってきた。このハンガリー法人は、どうもロシア・マフィアの大物セミョン・ユコヴィッチ・モギレヴィッチの関連会社のようであった。モギレヴィッチは、80年代にソ連を出国するユダヤ人の資産換金を引き受けて財を成した。その後、彼はソ連崩壊の混乱の中で軍の武器をイラクやイラン、セルビアに売却し、荒稼ぎをした。90年代になると彼はブダペストに拠点を移し、武器、麻薬、売春で1億$以上の資産を築いたという。ビジネスの肥大化に伴って、彼は金の保管場所に頭を痛めるようになった。彼は監獄も税務署も真っ平であったし、何より旧ソ連を襲ったハイパーインフレは外貨建て資産への強烈なニーズを喚起していた。


  マネーロンダリングとは非合法な手段で入手した金を頻繁な移動により、その出所をわからなくする取引を言う。そしてダーティーマネーは取引のたびに、貴金属やら美術品やら有価証券に形態を変え、当局の目を逃れようとする。古典的な技術としては、故・金丸自民党副総裁も利用した割引金融債が知られている。割引債は所得税が18%に軽減されている上、無記名による保有が可能であった。後ろ暗い金を持って、氏素性を隠して長期信用銀行のカウンターに行き、ワリコーやらワリシンといった商品を買ってしまえば、満期時にはクリーンな金を手にすることができるというわけだ。しかしこれはもう時代遅れとなった。当局も本人確認法による架空口座のあぶり出し等対策を進めている。


  規制とテクノロジーの進化はいたちごっこを生んでいる。「例えば、金融先物市場のディーラーが決済用に2つ以上の口座を保有することは当たり前だろ。利益と損失を別の口座、つまり正規資金と不正資金の口座に振り分ければ、合法に損失勘定のロンダリングは完了する。」元投資銀行員は説明する。「もっと簡単な方法もあるぜ。
生命保険でも損害保険でも、とにかく現金で保険料を払うんだ。後は保険契約の期限前解約をするか、或いは損害保険金支払いを請求すれば、保険会社から銀行通貨によるクリーンな支払いを受けることができる。」マッカランのロックを味わいながら彼の言葉をなぞってみる。「まるで手品だな。」「その通り。手品を成功させるための3つの秘訣を知っているか?」元投資銀行員は楽しそうである。「まず何が起こるかを言わない、タネを明かさない、そして2度と同じネタを繰り返さない。」アルコールの心地よい麻酔が効いてくる。「もしそれを守らなかったら何が起きる?」「飯が食えなくなるだけですよ。」
芸を終えた手品師が加わってきた。


  この史上最大のマネーロンダリング事件の話は、曖昧な幕切れを迎える。ピーターとルーシーは起訴されたが、モギレヴィッチはハンガリーを離れ、姿をくらました。彼は今もFBIから告発されている他、英仏の情報機関は、彼が旧ロシア軍の核物質をアルカイダに売ろうとしたとも考えている。疑惑は果てしない。ルーシーをロンドンのポストに配置したのはBONYの東欧業務統括責任者ナターシャである。ナターシャの夫コンスタンチンは、実は92年から95年までロシアのIMF交渉代表を勤め、その後メナテップ銀行の副会長を経て大手石油企業ユーコスの副会長となった。1996年大手監査法人プライスウォーターハウスは、IMFからロシア連邦銀行に融資された120億$がオフショア企業に移転されていたと報告している。その一部はBONYの口座を経由した可能性もあるという。同行はナウル共和国籍のサイネックス銀行を利用した30億$のロシア・マフィアの資金洗浄疑惑にも利用された証拠がある。


  2005年末BONYは連邦当局と3800万$の和解金で事件を決着させた。しかし2006年4月FRBとニューヨーク州は同行に再発防止措置の徹底を命じている。IMFによると、マネーロンダリングの規模は全世界のGDPの2〜5%に相当し、これは2005年の金額で換算すると最大2兆1,400億$の巨大市場である。
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