Not Fade Away
〜マリオットの復活〜


「沖縄料理以外にも色々珍しいものがありますよ。タコスの具がご飯の上にのってるタコライスとか。日本では馴染みないけど、沖縄に行くと普通にルートビールが飲めますよ。A&Wだったら全店お代わり自由ですし。」
  年度末までの溜まった仕事の疲れを沖縄で癒やしてきた年下の友人が楽しげに語る。アメリカではポピュラーなソフトドリンクであるルートビールを売るA&Wは、古き良き時代の1919年にカリフォルニア州ロディで創業し、フランチャイズチェーンを展開している。今回のテーマはルートビールではない。しかし話は小さなA&Wのスタンドから始まる。


  1927年ワシントンD.Cに、J.ウィラード・マリオットとヒュー・コルトンという2人の青年が、A&Wのフランチャイズに参加し、「ホット・ショップ」という9席のルートビア・スタンドをオープンした。この小さなスタンドが70年後には巨大ホテル・チェーン、マリオットになる。彼等の歴史は絶え間のない多角化、業態転換、リストラの歴史である。

  ホット・ショップの経営は順調だった。マリオットが次の事業を始めるのは、創業から10年たった1937年のある日のことだった。彼はワシントン郊外のフーバー飛行場に隣接するホット・ショップで、乗客達が機内に持ち込む飲食物を買っているのに気づいた。彼には閃くものがあった。航空機の性能が向上し、人々は空の長旅をするようになっていた。
  彼はマイアミに飛び、航空会社の重役に飛行機内での食事の供給を申し出る。こうして始まった機内食事業は、1963年には10の空港で25の航空会社にサービスをするまでになる。
  マリオットは他にも、給食事業やハイウェイフードサービス、ファーストフード、レストラン等で成功を収め、彼の会社は1964年に「マリオット・ホット・ショップ」、創立40周年となった1967年には「マリオット・コーポレーション」と改名され、従業員は2万人にもなっていた。1968年にはついにニューヨーク証券取引所に上場を果たす。


  しかし後に事業の柱になるホテル事業は、グループ全体の売上の10%にも達していなかった。1957年に開業した「ツイン・ブリッジ」以来マリオットのホテルは、1966年の時点で僅か6軒であった。ホテルの建設、開業の為の巨額な資金負担が足枷となっていたからである。しかし1977年にマリオットはホテル事業を営むためにホテルを所有する必要はない、という革命的な判断に至る。彼等は建設したホテルを投資家に売却し、さらにそのホテルの長期管理契約を結ぶという手法に切り替えた。ホテル数は急増する。4年後の1981年には100軒を突破、1982年には2週間に1軒の割合で新しいホテルがオープンするまでになった。1985年4月エセックス・ハウスを日本航空開発へ売却した際に来日したJ・W・マリオット・ジュニア社長は「現在の客室総数6万室を1990年までには10万室にしたい」と語っている。当然、売上の成長も凄まじかった。グループ全体で創業から50年間をかけて達成した10億$という数字を、ホテル部門は5年で実現してしまった。1989年には、厳しい競争にさらされ成長に限界の見えたかつての中心事業ファーストフード、レストラン・機内食部門は売却され、ホテル部門がマリオットの中心事業となった。


  しかし80年代に行った拡大戦略は36億$もの有利子負債を生み、マリオットを苦しめる。さらに湾岸戦争とその後の景気後退はホテル業界に大きなダメージを与え、90年の決算は5400万$の赤字、株価は1年前の40$から10$まで下落した。1992年10月マリオットは巨額な負債の足枷から逃れるため、健全なホテルマネジメント部門と鈍重な不動産部門を分割することを決定した。これは有利子負債の大半をホスト・マリオットと名づけられた不動産会社に押し付け、マリオット・インターナショナルという身軽なマネジメント会社をスピン・オフするという大胆なものであった。
  分社の際には旧マリオットの株主には、両社の株が1株ずつ与えられた。株式市場はこの分社化を好意的に迎えた。株価は19.25$に上昇する。しかし、一方で成長部門部門を切り離されたマリオットの社債は格付機関から投資不適格の烙印を押されてしまう。値崩れをおこした債券の保有者は多額の損失の計上を余儀なくされ、彼等の間からは非難の声があがる。マリオットは株主と債権者という2大利害関係者の衝突に悩むこととなる。しかし彼等は決断した。
  スポークスマンは語る。「我々は株主の受託者としての義務がある。分社案は株主の利益を大前提に決定された。一方債権者に対す義務は、利払いを滞りなく行い、満期時に元本を払い戻すことである。我々はその義務を果たす。」
  結局、金利を1ポイント上乗せや返済期間の延長など、1年がかりで債権者との交渉がまとまり、大手術は完了する。


  株主価値向上のための努力は続いた。日本と異なり、米国では不動産を所有している企業の株価は低い。1996年ホスト・マリオットは株価を引き上げるために、不動産事業に比べてリスクが低く、成長性のある空港内販売施設事業を再び分社化する。マリオット会長は「もう切り離す部分はない」と語ったが、リストラはまだ終わらなかった。1998年4月ホスト・マリオットは会社形態を不動産投資信託(REIT)に転換し、またも高齢者向け集合住宅事業のスピン・オフを実施する。
  ホスト社の利益は全額が課税対象となるが、利益の大半を株主に配当として支払うREITは法人税が免除される。REITとなることで税負担を大幅に軽減し、債務返済の確実化を図ったのだ。


  一方のマリオット・インターナショナルは贅肉を削ぎ落としたうえで、フランチャイズ方式による事業の拡大を続ける。ホテルの建設により客室の需給を崩すよりも、他社のチェーンに加盟している既存のホテルを口説いて、看板を替えさせることを選んだのだ。証券取引委員会規定に基づく10K報告書によれば、同社が展開しているホテルの半分以上はフランチャイズが占める。1998年12月末時点で、マリオット・インターナショナルは1686軒32万4400室のホテルを傘下に収め、売上高80億$、従業員数13万3000人の巨大企業に成長、株価は30$を超えた。こうしてマリオットは、膨れ上がった負債と事業ポートフォリオの重圧から脱したのだ。直近の2001年度12月末の決算ではホテル数は2398軒43万5983室、売上高100億$に増加している。
  株価も上昇を続け、4月11日時点で45.05$の値をつけている。


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